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桐朋学園大学ソリスト・ディプロマを経て公益財団法人ロームミュージックファンデーションの奨学生としてエリソ・ヴィルサラーゼ氏のもと2015年にモスクワ音楽院を卒業。桐朋女子高等学校音楽科ピアノ科を首席で卒業、あわせて桐朋学園音楽部門より特別奨学金を授与される。
これまでに杉安礼子、故ウラジーミル・竹の内、辻井雅子、佐藤辰夫、広瀬康、野島稔、ミハイル・カンディンスキー、エリソ・ヴィルサラーゼの各氏に師事。
「素晴らしい輝かしいピアニストで私は彼の特別な繊細な感受性と音楽への献身に心動かされました。」(アルゲリッチ氏)「音楽に普遍的なアプローチをする事ができる個性的で創造的なアーティスト」(ネルセシアン氏)と称賛される。
若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール、マウロ・パオロ・モノポリー国際ピアノコンクール,ケルン国際音楽コンクール入賞、シュニトケ国際コンクール優勝、ポッツォーリ国際ピアノコンクールで優勝。また浜松国際ピアノコンクールに参加し「ネルセシアン賞」「( 公 財 )アルゲリッチ芸術振興財団賞 」を受賞しアルゲリッチ氏より別府アルゲリッチ音楽祭に招待され演奏する。
外山雄三、沼尻竜典、アナトリー・レービン、ミヒャエル・ザンデルリング指揮、アンサンブル金沢、仙台フィルハーモニー管弦楽団、ケルン放送管弦楽団等と共演。また室内楽にも積極的に取り組み、2010年、崎谷直人・新倉瞳両氏とのピアノ・トリオのCDが発売され、レコード芸術誌に掲載される。
2024年度より桐朋学園大学のピアノ科准教授。PSO ピアノスカラーシップ大阪 第一期奨学者。
グリーグ《抒情小曲集》より
シューマン《ピアノ・ソナタ第1番》
チャイコフスキー《ドゥムカ》
ラフマニノフ《ピアノ・ソナタ第2番》1913年版
Grieg, From Lyric Pieces
Schumann, Piano Sonata No. 1
Tchaikovsky, Dumka
Rachmaninoff, Piano Sonata No. 2 1913 version
使用ピアノ
ベーゼンドルファー・コンサートグランド 290インペリアル
97の鍵盤と巨大な響板が生み出す
オーケストラのような豊かな音色
三千円 全席自由
未就学児の入場はご遠慮下さい
ロマン派とは、音楽にとどまらず、文芸・絵画・科学においても、ひとりの人間の内面に生まれた感情や想像、思索が、そのまま膨らみをもって表現され、そこに真実と誤謬が入り混じったまま立ち現れてくる時代であった。
ロマン派芸術は、明確な論理や物語、共有された文法の上に構築されているのではなく、個人の感情や思索、幻視や夢といった曖昧な領域に深く根ざしている。ロマン派の芸術家たちは、「何が言いたいのか」よりも「自分がどのように感じているか」を重視しており、そのため受け手には解釈の自由が与えられると同時に、意味の揺らぎや読み解きの困難さが伴う。
そうした揺らぎや読み解きの困難さの中にこそ、ロマン派芸術が単なる説明や理解を超えて、深い感受や共鳴を呼び起こしうる力がある。そのような反応が常に生まれるとは限らないが、それゆえに芸術との関わりは、時に容易ではなく、応答を求める沈黙の場ともなりうる。
コンサートを謎のまま終えるということ。それは明快な終止符ではなく、むしろ問いを残して幕を閉じるということである。壮大なスケール、極端な情感、そして構造の曖昧さをもつ作品は、単純な意味づけや物語化を拒む。聴き手を慰めるでもなく、すっきりと終わるわけでもない。だからこそ、そのような音楽には、今なお語りかけてくる力があるのではないだろうか。
クラシック音楽が現代において芸術として受けとめられるためには、「芸術とは何か」という問いを手放さない姿勢が求められる。それは、単なる娯楽ではなく、表現と真剣に向き合う態度のことでもある。グリーグ、シューマン、チャイコフスキー、ラフマニノフはいずれも、生の深層と向き合いながら作品を生み出した。彼らの音楽に応答するには、私たちもまた、ただ耳に心地よい響きの背後にある、切実さや沈黙の気配を感じ取ろうとする感受を携えていなければならない。
まさにその問いを、自身の演奏活動の中で引き受けているのが、ピアニスト沼沢淑音である。彼の作品選択は、興行的な配慮や即時的な理解の得られやすさとは異なる次元に根ざしており、それぞれが彼自身の内面的な問いかけや、芸術との対話の中から立ち現れてくる。そこには、耳あたりのよさでは測れない選択の必然があり、それを尊重することは、芸術という営みそのものを信頼することにもつながっている。
ロマン派音楽が本質的に孕む「不可解さ」、そして沼沢淑音・Yoshito Numasawaという芸術家があえて選び取った作品に見られる「不可思議さ」。それらを真正面から受けとめることによって、私たちの側にも「芸術とは何か」という問いが引き寄せられてくる。この二重の信頼──作品そのものの多義性を信じることと、その選択に宿る必然性を信じること──こそが、いまクラシック音楽と向き合うための静かな出発点となるのではないだろうか。
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